子どもと学びとわたし

保育士ママが子育てや教育について考えてみる

きっかけは息子の不登校

 

わたしが、日本の教育について考えるようになったのは、息子の不登校がきっかけでした。

考えるようになった、というより、昔の自分の気持ちを思い出すきっかけになった、というほうが正しいかもしれません。

 

息子が初めて学校へ行きたくないといったのは、小学校に入ってわずか2か月後。

最初は、なかなか新しい環境になじめず、保育園の友だちもほとんどいなかったので、不安が大きくなっただけだろう、と。特に深く考えず毎朝付き添い登校をしました。

 

実は、いつか不登校にはなるかもしれないな、と思っていました。性格的に繊細で気弱なところがあるので、過酷な集団生活にどこまでついていけるんだろう?と。

でも、まさか小学校に入ってすぐに、とは全く想像していなかったのが正直なところでした。

 

結局、息子は小学校2年生の3学期に不登校になりました。

 

当時の担任や校長、副校長の態度が、あまりにも他人事で、無神経な発言も多々見られたことから、スクールカウンセラーのすすめで教育センターに相談しました。

教育センターの介入によって先生たちのひどい行動や発言はなくなりましたが、その後息子とわたしは数年にわたって教育センターの教育相談にお世話になりました。

 

心理士さんと話をしているうちに、わたし自身も学校が苦手だったこと、ついには耐えられなくなって、日本の学校を飛び出し、海外へ渡ってしまったことを思い出しました。

 

わたしが恵まれていたのは、小、中学校時代、いろんなトラブルはありながらもわたし自身を理解してくれる先生方がいてくれたからです。

だからこそ、なんとか小中学校は不登校にならず卒業することができました。

それゆえに、息子もなんとか小学校くらいは卒業できるだろう、と思ってしまっていたけれど、あまりにも理解のない先生方が多く、これが今の学校の状況なのか、と愕然とさせられたのをよく覚えています。

もちろん中には理解をしてくれる先生もわずかにいましたし、素晴らしい先生方がいらっしゃることもわかっています。

ただ、担任一人がすべてを抱え込んでしまう現実はどうなのだろう?と。

これはうちに限った話ではなく、保護者の間でも、「今年の担任はあたり、はずれ」という会話が必ずのぼります。

担任によるクラス格差が生まれているのが現実です。

 

誰もが経験があると思います。「あの先生はよかった。あの先生は最悪だった」

もちろんいろんな先生がいて当たり前ですし、性格的に合う、合わない先生ももちろんいます。そういった先生たちとの付き合い方を学んでいくのもまた必要なことだとも思います。

 

ただ、子どもたちの状況を見ていると、明らかに学校で不平等さを学んでいるような気がするんですよね。

要領よく先生に気に入られるように生きる術を学ばされているような気がしてなりません。

 

すべての子どもたちに対し平等に接してくれる先生ならば、子どもたちはのびのびと過ごしているのがよくわかります。

ですが、時には先生の顔色をうかがいながら学校に通っているときもあります。

そういうことを学ぶことも将来のためには必要だ。

嫌なことややりたくないことをやるのもひとつの勉強。

苦手なことを克服する力が必要。

わたしも子どもの頃、そういうことをよく言われました。

 

今なら「馬鹿じゃないの」とはっきり言っちゃうかもしれないですけど。

なぜか。

大人のわたしは嫌なことはやりません。

苦手なことは克服するんじゃなくて人に頼ります。

苦手な人には近づきません。(大人だから挨拶くらいはしますが)

別に、そうやって生きていけるからです。

 

嫌なことに力を注ぐよりも好きなことに力を注ぐほうが人に認めてもらえますし、頑張れます。

苦手なことは人に頼るべきだと教わったのは海外に出てからです。

苦手な人とわざわざ近づかなくても仕事はできます。

 

子どもの頃のわたしは、誰かに認めてもらいたくて嫌われたくなくて無理ばかりしていました。

真面目だね。

頑張り屋だね。

よくできたね。

そういわれることで、安心感や居場所を確保していたんです。

 

けれど、今は別に本当に自分を理解してくれる人がいれば、嫌われてもいいと思ってるので、あまり気にしなくなりました。

 

ありのままの自分でありのままに生きていると、似たような人が自然と集まってくるんですよね。

なのでけっこう気楽に生きています。

 

今、思うんです。

どうして子どもの頃の自分は我慢ばかりして、人に合わせることばかり考えていたんだろう、と。

もちろんそのころの自分はそうする手段しか知らなかったからなんですよね。

 

だれも学校以外の世界があることを教えてくれなかったし、自分で知ろうともしなかったんです。

 

わが子を見ていて、苦しかった自分を思い出し、重ねてみてしまうこともよくあります。どうにかしてあげたいなぁと思うんですが、自分で乗り越えていかなければならないこともあるので、見守ることしかできなかったりもするんですよね。

 

なんとももどかしい。

 

じゃあわたしにできることってなんだろう?と思ったときに、たどり着いた答えが、情報を与えてあげること、でした。

 

これまで情報収集はものすごくしてきているので、その情報を惜しみなく子どもたちに提供すること。そうすることによって、子どもの不安が少しでもなくなればいいと思うし、視野が広がってくれればいいと思うのです。

 

教育って英語ではEducationです。このEducationの語源を知ったとき、なるほど~と思ったんですよ。

 

能力を引き出すこと。

 

学校の先生の役目は子どもたちが持っている能力を引き出してあげることなんではないかなぁと思うのですよ。でも、どう考えても現実はそうではないですよね。

 

今、世界の教育をみていると、先生の役目がTeacherからFacilitatorに変わりつつある学校も増えてきていますよね。

息子が今通っているオルタナティブスクールも、担任の先生は相談役みたいな立ち位置で学ぶことや目標達成の手助けするのが役目だそうです。

先生が教壇にたって教え、子どもたちは受け身で学ぶ。こういったことは近い未来なくなってしまうかもしれませんね。

 

不登校だった息子はホームスクーリングを経て、今は自ら選んだ学校へ通っています。

わたしが何かを教えなくても、息子は自ら学ぶ力を身につけてくれています。

これが正解かどうかわかりません。

これから息子がどんな生き方をするのかもわかりません。

 

今は高校をどうするか、という進路でいろいろ悩んでいるようです。

思春期ちゃんあるあるですね。

 

本人もいろんな情報を集めているようです。

わたしの役目も情報を与えてあげることから、一緒に情報を集める、というものに変わってきました。

 

こうやって子どもは手を離れていくんですね。

うれしいやらさみしいやら。

 

息子のことがきっかけとなり、今、世界の最先端な教育についてもいろいろ学ぶことができたことは大きな収穫です。

日本でも面白い学校がたくさん開校していることを知ることもできました。

息子のおかげで、娘の選択肢もたくさん増えました。ほんと感謝感謝です。