世の中、多様性という言葉があふれかえっていて、そこに違和感を抱かざるをえないのですが…、多様性って、なんでもかんでもごっちゃ混ぜにすればいい、というものではないんですよね。
正直、多くの学校では言葉だけが独り歩きしている気がします。
違いを認め合い、個々を尊重しあう。
そんなのもちろん当たり前のことなんですけど、多くの学校では、言葉では多様性を受け入れましょう、といいながら、矛盾を子どもたちに与え続けてきていると思うのです。
息子が小学校に入学するときもそうでした。先生方は多様性を受け入れ、個性を大事にした教育を目指しています、と説明されるんですよね。
でも実際、入学して、最初の保護者会で担任の先生が何を言ったかというと、
「みんなと同じことができないといじめに合うので、クラス全員が同じことが同じようにできるように指導していきます」
といったんですね。
え?
ですよね。
「それぞれの個性を大事にしています」
と言いながら、大人しかった息子に対して
「まじめで目立たない大人しい子です。個性がないので心配ですね」
ええーーー!?
開いた口がふさがらないとはこのことです。
この先生は個性がなんたるか、多様性を受け入れあうということがどういうことか本当に理解されているのかしら!?
本当に心の底から驚きました。
にぎやかな子もいれば大人しい子もいます。
大勢の中では目立たなくでも、少人数の中では活発に行動できる子もいます。
運動が得意な子もいれば、算数や理科が得意な子、読書が好きで国語が得意な子、さまざまな子がいます。
国や宗教、文化の違いだけでなく、障がいある子、ない子、グレーゾーンの子、小さな違いから大きな違い、人はみんな違うのです。
そんなひとりひとりの違いを認め合うことが多様性を受け入れるということです。
みんなと違うことを同じようにすることではないんですよ。
にぎやかな子が個性のある子ではありません。
ひとりひとり、違ったものをもっていることが個性です。
にぎやかなところも個性だし、大人しいところも個性なのです。
レッテルを張るべきことでもありません。
正直、この先生は大丈夫なのか?と思ったのですが、案の定、様々なトラブルが勃発しました。
そういった先生が一定数いる学校へ、慢性疾患を持つ娘は来年入学します。
合理的配慮を必要としています。
学校には様々な先生がいます。いろんな考えをもっていて、価値観も違います。それは仕方ありません。べつにだからどう、というつもりは全くありません。
ですが、多様性を言葉にしている先生たちが【多様性】という言葉の意味を理解していない、というのは問題です。
そもそも一斉授業を基本とし、個別対応が難しい、教育が多様化していない学校で多様性は受け入れてもらえるのでしょうか。
一方で、多様性や共生、合理的配慮、さらにはSDGsなど、様々な教育の目標をかかげなければならない学校の大変さは半端ないだろうと感じます。
しかも今は早期英語教育やプログラミング教育、教育のデジタル化などこれまでになかった、先生たちが経験してこなかったものを学校で教えていかなければなりません。
忙しい先生たちが情報のアップデートをしていくのも大変なことだろうと思います。
だからといって大人の事情により子どもたちの教育を遅らせるわけにもいきません。
子どもたちは日々成長していきます。
「ちょっと待って」は通じないですからね。
世界の国々では、先生の役目がTeacher (教師)からFacilitator(促進者、調整役)に徐々に変わっていっているといいます。
先生が子どもたちに一斉授業をするのではなく、個々の学びを支える役目です。
子どもたちは自ら学ぶ力をもっています。
おそらく、プログラミングなんて先生より子どもたちの方が詳しい、ということだってありますし、国際的なバックグラウンドをもっていたり、インターナショナルの幼稚園や保育園で育ってきた子どもたちは先生よりも英語が流暢だったりすることもあるでしょう。
先生が教えられるべきことは教え、子どもたちが自ら学ぶときにはその学びを支える役目に変わっていけば、多様な子どもたちが多様な学びができる学校になるのでは?と思いますが、なかなか教育現場が変わるのは難しいでしょうね。
難しいからこそ、息子はオルタナティブ教育を選択しましたが、おそらく娘もその選択をすることになるような気がしています。
最初から視野に入れていたのも事実ですが、それでもまずは現状の公教育に触れて、合わなければ別の選択肢を考えようと思っています。